<第1回> 「古関の生活と益田川」

 

2003年10月28日

『すべてが谷水を使っての生活だった』
古関は昔から谷水が豊富で、すべてが谷水を使っての生活だった。水源地は馬瀬のトンネル方面の山で我々は子供の頃から谷水を飲んできた。高い地形だから井戸水はなく、山水が飲料水だった。昭和30年頃までは飲めた。現代は各家の台所の排水などが流れ込み飲めない。下の家々には井戸がだいぶあったが、最終的に井戸は昭和40年頃、ほとんどなくなった。河川改修により井戸が出なくなってしまった。この谷はだんだん水が少なくなってきている。砂利が汚れ、青くなりつつある。
今でも田んぼは山水で作るが、すべてが谷水のおかげだった。昔はもっと田んぼが多く、雨が降れば貯水の役目をしていたことはまちがいない。確かに昔も雨が降れば谷水があふれたが、家の中まで入り込むようなことはなかった。しかし、現代は道路自体を雨水が流れ、家の近くまで押し寄せる。雨が降り始め10分もすれば水が出る。これは上が開発されアスファルト化されてしまったせいだろう。逆に雨が降らない時はまったく谷の水がなくなってしまう。
田んぼの基盤整備とともにコンクリート化が急速に進み、コンクリートの水路と化してしまった。幅は1mぐらいある。昔は石積みの谷で、石積みから完全にコンクリートになったのはここ1.2年。コンクリート化により水の汚れが強くなっただけでなく、生き物世界にも異変がはじまった。小魚、サワガニ、タニシ、カエルなどが棲まなくなってしまったことだ。魚はコンクリート化される前から消えてしまったが。

『伝統工法松の沈床』
川の流れが相当、変った。現在の日下部建設の工場がある辺りは昔、ずっと松林だった。川が増水しても岸辺のヨシなどが浸かり減水したときに倒れる程度で、根こそぎ全部が欠けていくようなことはまずなかった。現代は河川公園とかを造るような気運だが、川が川として自然になるにはあまり造らないほうがいいと思う。
我々は沈床(ちんしょう)と呼んだが、沈床が護岸にずっと置かれた時代を見てきた。沈床とは松の丸太を蒸篭(せいろ)のように組み、その間に石を詰め込んだ伝統工法のこと。沈床を置く場所も川の地形に合わせた。松は水の中に浸かっていたら10年や20年はもつ。水から上げると1年も経たないうちに腐ってしまうが。だから山の松も需要があったということになる。沈床の姿があったのは昭和28年頃までだろうか、それ以降はコンクリート護岸工事に変っていった。かなり大水が出ても沈床が流れたということは聞いたことがなかった。松の沈床は水流から護岸を守っただけではなく川の浄化作用と魚の繁殖を助けた功績が大きい。我々はその沈床の所へ行って魚を捕った。

『学校から帰れば水浴び 夜はザス釣り』
古関の谷には昭和50年代までサワガニやタニシ、それにハエも見ることができたぐらいだから、それ以前はかなりの魚たちが棲んでおり、大川へいかなくても魚を捕まえて遊んだ。特に今の消防署の所は羽根小学校があり、魚が群れていた。今はコンクリートで固められてしまった。
学校から帰れば水浴びに大川(益田川)へ飛んで行き、益田橋の下はもちろん、川全部が遊び場だった。パンツ姿で川を下った。それでも昭和56年頃までは川で遊ぶ子供たちの姿があったような気がする。それから学校にポツポツ、プールができるようになりだんだん、川へ行かなくなったのだろう。川で遊ぶにしても場所が指定されていたようで、我々の時代は指定ということがなかった。
夜も遊んだ。タイマツに火を灯し沈床へ行った。何をするか、「ザス」を釣るのだ。その釣り方がおもしろい。ミミズを糸に通して作ったミミズ輪を細い竹竿の先に結わえ、沈床の間に入れてやるというもの。一晩に1時間ほど沈床にミミズを入れて相当のザスを捕った。子供たちはどこの沈床へ行けばザスがいるかを知っていた。捕ったザスは煮て食べた。
同じ萩原でも古関と川向こうではいろいろ違った。子供の頃のケンカは対岸同士のケンカだった。水浴びに行くとかならず大将がいて、毎日のようにケンカをやった。

『自分たちの土地は自分たちで守る』
覚えているのはたとえば、古関のどこかが大幅に決壊した場合、私らの区で直した。土木の会社がなかったため、区長が中心になり一軒の家で何日出なさいというように交代に出た。金は県や町から多少は出たようだ。大川の決壊でもみんな、文句を言わず交代に出て沈床や堤防を造った。自分たちの土地は自分たちで守ろうという精神だった。吊り橋でもその橋に穴が空いたら自分たちの通る道ということで、まずは自分たちで直した。現代のように役場へ飛んで行って直せと大声を上げる前に自分たちで直した。
決壊修復は機械がないわけだから期間はかかる。レールをはってトロッコを動かした。トロッコに石を積んで手で押して運ぶわけで、このトロッコは終戦後まで活躍した。直す職人を他の地域から呼んだということもない。石工職人は地元にはいたが、昔は誰でもある程度の石は自分で積むことができた。自分の田んぼの石がけが崩れればすべて工夫して自分で積んだ。村人は生活経験上、この谷のどの箇所が多く水が出るかということを知っていたから、それなりに自分たちの工法を身につけていた。
現代はある箇所が崩れた場合、役場はその場所の地形など考慮せず、机上で設計をしてしまう。やはりその地域に即した設計を引く必要があり、崩れた場合はその地域の人にそれまでの状態を絶対に聞くべきだ。たとえばせっかく金をかけて造った排水路がなぜ、こんな小さな精度になるのかと思う。逆にどうみても強化せねばならぬ箇所に小さな機能の工事が行われることが目立つ。これは地域の事情をまったく聞かずして机上で計算してしまうからだ。

『草と流木の入札』
日常的な管理で河川敷の草を刈ることなどは、古関はここまでというように区域が決められていた。現代でも行っているようにお盆前には全員が河川敷に出て草を刈る。ところで「入札」というのがあった。今でこそ河原の草には誰も見向きはしないが、昔は田んぼや畑の飼料になるものだから貴重だった。河川敷の草を村人総出で刈ったあとは入札を行い草を買った。
草以上に利用価値があったのがマキとなる流木。家々にガスはなく風呂を沸かすにも飯を炊くにもマキは絶対必要だった。古関の区域に上がった流木を手にする1年間の権利を得るために毎年入札を行った。いくら流木とはいえ所有のわかる材木などは入札の対象にならない。この草と流木の入札は昭和40年少しまではあったと思う。
つまり、大水が出ることで恩恵を受けたことになる。「今年は大水が出なかったらダメやった」と言い合ったほど。それに減水して流木が貯まるところはだいだい決まっていた。現代は大水が出ても流木が流れて来るようなことはない、流れ着くのはビニールやゴミばかり。その前にダムに貯まることはあるだろうが。仮に草や流木が流れ着き貯まったとしても、現代人は焼いてしまうだろう。昔は「焼く」ということはもったいないととらえ、焼いて捨ててしまうことなど考えられなかった。

<編集後記>萩原町古関在住の中田明久さん(昭和12年生まれ)宅を訪問し、明久さんから古関の生活と益田川への関わりをお聞きし、今回のレポートが出来上がりました。谷水を使っての生活、昔から伝わる河川護岸工法の一つである木工沈床、川遊び、決壊修復への村人精神、草と流木の入札、すべてが昔の事ではなく21世紀のまちづくりに活かすべき知恵だと思います。



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